ヨーロッパの予備校生

 何回も作り笑いをしたけれども、本当に面白かったのは人のあとに入ったトイレが臭いことだけだった。探究国語総合(現代文・表現編)で高校の授業では読まなかった文章を読んだ。
 
美しい言葉とか正しい言葉とかいわれるが、単独に取り出して美しい言葉とか正しい言葉とかいうものはどこにもありはしない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしにせおってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。(大岡信『言葉の力』)

言葉の使い方に関心が出てきて、最近は誤った使い方を避けるよう心掛けている。違う時に「ので」「から」を言っていたり「まあ」「ねえ」をポーズ・フィラーのように使いまくっていた。使い方のあいまいな言葉は辞書で引いたりしています。「身も蓋もない」を根拠のないという意味合いで使っていた(正しくはあからさま過ぎるという意味)ことに気付いた。こうしたことですぐ結果が出るのかというと難しいが、習慣になってきたのでそのうちに言葉の使い方は良くなるものと考えている。 
その分というか、そのせいというか、使い方とは関係のない部分、声に出さない自分の言葉が悪くなった。
というより使い方では隠すことのできない考え方の汚さが明確になってきた。「つまらないつまらないつまらないことを言うな思うな」と家族を心の中で罵ることがある。「おじいさん」が「くそじじい」に変わってしまうことがあった。
人前で使う言葉と考えている自分の言葉との間にギャップがある。話すとき使わない言葉は、表に出ない自分を示している。それはほかの人に伝わっているかもしれないし、いないかもしれない。声に出していないのだから伝わるわけがないと思うのが普通である。ただ、声にしなくても伝わるものがあるというのは昔からよくいわれていることだし、たとえ伝わっていないにしろ、口にする言葉と口にしない言葉とが無関係だと言い切ってしまうことは誰にもできない。私の中にある言葉にならない言葉は何かを発している。それが汚いことが気になる。
私の場合、言葉が汚いのは生活のせいだ。

7月14日くらいに思っていたことです


人を警戒して遠ざけたい。干渉されるのがこわいと感じる。人の提案や助言を受け入れない。表面上ははいはい言ってるんだけどそれを実行に移すことは少ない。性格が素直でないのと、自分のことを人に話さなかったり感情表現がはっきりしないので、アドバイス・提案がうまくできないことが関係していると思う。
 から芯を食わない。誰も悪くない。
 今の楽しみはジュース。なるべく健康に良さそうな奴 今日はウェルチを初めて飲んだ
 女の人の腕を見ている時「俺には性欲がある」って思う。その後、「それは置いといて」とやるのだけど置いた性欲はどうなるんだ。
女を不潔な目で見てしまったと考えるのを防いでいた。
 風呂に行こうと誘われたのを断った。裸の付き合いをしたくない。人から何か頼まれるのが怖い。人から何か与えられるのは嫌だ。その分何か求められそうな気がする。与えることで求めようとするなよこっちが求めていないときに
わたし夕飯はソースカツ丼を食べよう
意図が怖い、。流されてしまうことが。次の意図を聞かされる その次のその次の意図
意図を着るのが嫌で聞こえないようにしている 意図はずっと待っている手を品を替え おれの意図を前蹴り
女を
属したくない最終的には。
友だちの家で遊んでいたらそいつの友だちが来た。ごめん今別の友だちと遊んでるからといったらじゃあお茶だけちょうだいと言いやがった。今もそういう人はいる
TSUTAYAの独特な有線
ダイアナ埠頭
痛さをterritorial pissingのようにぶつける
人の指が6本にみえたのが最近

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今と別のところに行きたい。できるという思いと無理だという思いが闘っていて、そこに伝えるのが怖くて億劫という思いが加勢してきて結局のところしない。これ以上やることがないのでできるかもしれない。生活を良くしていきたい。