ドーバキホステル

数年前に友人がアメリカのワシントンD.C.で短期滞在することになった。滞在先に来てもいいというので10年間有効のパスポートを作った。もうひとりの友人と3人で何日か生活することになるし何か作れた方がいいと思ったが、料理をほとんどしたことがないので、よく利用していた個人経営の書店に和食のレシピ本を買いに行った。アメリカから帰ったらまた、と店主に言って店を出たことを覚えている。しかし、お盆休みを利用して行くつもりが仕事で行けなくなり、パスポートを使うことのないまま時間が経っていった。

この年は5月の祝日が重なって9連休になった。初めは何も考えずに身体を休めていたが、今がパスポートを使う機会なんじゃないかと旅行サイトを調べたら、韓国へ行くのは予想より費用がかからないことが分かった。このタイミングを逃すとパスポートの期限までに海外へ行けないんじゃないかと思った。決まり悪くて本屋に顔を出せなかったが、韓国に旅行してきたというのは久しぶりに行く口実にもなる。映画祭で有名な釜山に行ってみたくなった。旅行会社に連絡して5月4日発の関西国際空港〜金海(キメ)国際空港の往復航空券を取ってもらい地球の歩き方を買いに行った。これが5月3日のことだ。

5月4日は朝6時に起きて7時50分に家を出た。駅へ向かう途中でウォークマンを忘れたことに気付いて引き返した。電車の中で路線図アプリを見ていて11時の便に間に合わないかもしれないと気付き、ハッとした。出発時刻よりかなり早い時間に着いて搭乗手続きを済ませる必要があるのを忘れていた。間に合わない、出発時刻より前に着くのだから流石に間に合うだろう、いや、とやっているうちに関西国際空港駅に着いた。ファミリーマートに寄って10時に手続きに行ったが、受付時間が終わっていた。代理店に電話して飛行機に乗れませんでしたと言った。担当から折り返します、と言われ、そのあとすぐ電話がかかってきた。直前に対応してくれた担当者に申し訳なくて、出ないでおこうかと思った。2万円ほど追加で払えば19時の便に乗れるとのことだったので、ファミリーマートで支払いを済ませた。昨日買った航空券はキャンセルになり、航空会社が変わった。6日夕方の便で帰ってくる予定が午前の便に早まった。既に4万円出していて、以前の給料だったら旅行を止めていたかもしれない。

数ヶ月前、仕事のことを相談する間柄の人が転居に伴って退職した。新しく人を雇う代わりに残った人の基本給を上げ、一人当たりの労働量を増やすことになった。同じことが以前にも一度あった。お世話になった人が辞めることや仕事が増えることよりも、誰かの穴は埋めることが可能だという事実を受け入れるのが難しかった。待遇がよくなることと誰かがいなくなることが自分の中で一緒になってしまい、その考えが止められないことに苛立っている。

出発まで8時間あるので時間つぶしにスカイテラス行きのシャトルバスに乗った。スカイテラスは飛行機が離陸するのを眺めたり空港のオリジナルグッズを買ったりして空港を楽しむことができる施設である。連休で家族連れの客も多かった。飛行機に乗れなかったことで気分が暗くなっていた私は、旅行せずとも楽しそうな人たちを羨ましく感じる。一度テラスから出て空港行きのシャトルバスの時間を見に行ったが、結局は中に入った。「1年後でいいから、もう1回連れてきて」と真剣な声で親にお願いする子どもを見た。エスカレーターに乗るタイミングを窺っている子もいた。エスカレーターに乗るだけのことがとても難しかったときのことを思った。その子は次の階からスムーズに乗れるようになった。最上階の展望デッキから空港の全体が見渡せる。おばあさんが「こんなん見て喜ぶ年齢ちゃうわ。なあ?」と一緒に来ていたおじいさんに言っていた。でも飛行機の滑走が始まると、2人ともベンチから立ち上がって離陸の様子を見ていた。

テラスから空港に戻って、サンマルクカフェでブレンドコーヒーを飲んだ。13時にドトールでグリルドビーフのサンドイッチを食べて、それからは空港の中をずっと歩いていた。16時半にチェックインカウンターへ行って搭乗手続きを済ませ、ドラッグストアで目薬と酔い止め、洗顔料を買った。TSUTAYAでインスタントカメラと韓国語会話の本、変圧器を買う。17時の荷物検査のあと、プロントであんぱんとクリームパンを食べた。席で日本人が3人、集まってプロ野球の試合をスマートフォンで見ている。

時間が来たので搭乗口へ行き、ブリッジから飛行機に乗る。その途中で日が暮れるところを見た。座席にミネラルウォーターが置いてある。航空会社の人が、前の職場で話したことのある人と似ていたのを後から思い出した。窓から滑走路と大阪湾が見える。アナウンスがあってしばらくして、飛行機が動き始めた。パンフレットに描かれたマスコットキャラクターはブルックブルーナの絵にそっくりだが、許可は取ったのだろうか。考えなくていい事を考え始めている。許可がないのだとしたら、似た絵を勝手にキャラクターに使う神経はフライトの安全性にかかわるのではないかと気になってきた。親には昨日、西の方に行くとだけ言って出てきた。飛行機が落ちたら自分が黙って海外に行ったことも知られるんだなと思う。離陸後、ウォークマンでCANのFUTURE DAYSを再生すると、水の中で録ったような音が流れたので停止して『火の鳥』の2巻を読むことにした。家に物を増やしたくないからという説明つきで人からもらったものだが、読んでいると気持ちが落ち着いた。

20時半に金海国際空港に着く。入国審査を受けたとき、日本人はあまりいないようだった。外務省からの注意事項というタイトルでメールが送られてきた。こういうメールが来るのは知らなかった。親に言っていなくても、外務省には自分の海外渡航の情報が知られるのか。ブラジルのコーヒー農園とか、誰も私のことを知らない場所へ行って住み込みで働き、そこで一生を過ごすという最終手段があるという思い込みを私は心の拠り所にしていた。

日本円をウォンに両替する。韓国で両替する方がお得だと本で読んだので、いまは日本円しか持っていない。両替所の女性が向こうにある銀行を指さして、早く行けとジェスチャーしている。急いで銀行に行ったが閉まっていた。さっきの両替所には誰もいない。慌てていたのは両替所は営業が終わっていて、銀行の閉まる時間も迫っていたからだろうか。ATMを触ってみたが私のキャッシュカードは対応していなかった。自動販売機にポカリスエットの細い缶が売っていて懐かしい。観光案内所に行って状況を説明すると、自分の代わりに銀行に電話して、何か両替する方法はないか聞いてくれた。電話が終わると「だめ」と言った。「明日、明後日は土日だから銀行開いてないです。この空港は23時で閉まります」礼を言って空港の外に出る。

移動する方法がないので昨日予約したドーバキホステルにキャンセルの連絡をする。利用規約にキャンセルは有料と書かれてあったが「無料キャンセルのリクエスト」というリンクがあったので、そこからメール画面を開いて英語で文章を考える。焦って同じ文法ばかり使ってしまう。メールを送ったあと、念のため電話もした。日本語を話せない人だったので英語で話す。キャンセルできてひとまずほっとする。生活の中で失敗やトラブルの説明をすることがたまにあり、自分のことをかわいそうと思わせたりこれ以上責めさせない技術が身に付いている。そのことを自覚すると深いところから恥ずかしさがやってきた。少ししてリクエスト承認の通知が来た。必要に迫られれば外国語でキャンセルが出来るんだなと自分に感心する。喫煙スペースの近くで眼鏡をかけた男性に「タクシー」と声を掛けられた。バンプオブチキンのfire signの前奏がなぜか頭に響いている。乗りたいけれどウォンが無いと説明したい。でも言い方が分からないので「ノー」と言った。日本語の通じる人が見つからない。

空港の閉まる23時、まだ歩いている。突然クラクションを鳴らされて、見るとタクシーが並走してきていた。さっきとは別の人だ。「タクシー?」と運転手の男が言った。切羽詰まった私は「ノーウォン!」と言った後、財布から1万円札を出して「イェンオーケー、ウォント、エクスチェンジミスクローズ!」と言った。「オーケー、車嫌い?」と運転手が言う。私はタクシーに乗り込む。通じたか分からない。でも乗ってしまった。韓国語会話の本をめくり「これをウォンに両替(ファンジョン)して下さい、ファンジョン、オーケー?」と言う。運転手の男はどこかに電話をかける。ホテルの予約ができていないことも言った。「東横イン?」と運転手が言う。「東横イン知ってる!」と返した。自分が今どこにいるのかどこに向かっているのか分からないが、周りの景色が明るくなってきたので都会に向かっているのではないだろうか。60代くらいで浅黒い肌の運転手。スマートフォンの待ち受け画面が軍服を着た男の写真だった。運転手の若い頃かと思ったけれど、それにしては画質が鮮明だったので子どもの写真じゃないかなと思い直した。

団地でタクシーが停まった。運転手がこっちを向いて「お金」と言う。私は初め5万円を両替したいと伝えていた。でも財布に日本円を残しておきたい気がして2万円だけ運転手に渡した。「5万だろ」と運転手は言いたがっている。残りの3万円を渡してもまだ私を見ている。こういうこともあるだろと思って運転手をにらみ返した。運転手はダッシュボードに私の5万円を置いて「ママサンが」と言った。そのあと鼻歌を歌い始めたのでとりあえずママサンを待てばいいんだと思う。しばらくして女の人が来た。この人が「ママサン」なのかな。50万ウォンといくらかお金を受け取った。「さようなら」「ありがとう」と言葉を交わして別れた。

車内からマクドナルドの看板が見える。見慣れたものを見たのが嬉しくてマクドナルド!と言いたくなったが、寄りたいわけでは無いと説明するのが面倒で言わなかった。月がきれいに出ていた。ネオンのきらびやかな中で分かるくらい大きい。私は本をめくり「月(タル)」「きれい(イェップダ)」と言った。運転手はハハッと声を出した。その後、「東横イン」と運転手が言う。高層ビルが立ち並んでいる中にその文字が見えた。「東横イン!」と私も言った。「市内観光呼んで予約OK?」「OK」東横インの前で車を停め、運転手が受付に話をしてくれた。しばらく話して、自分で喋れという表情を私に向けてきた。受付は黄色い服の女の人で日本語が上手かった。あっという間に手続きが完了する。運転手への態度が冷淡だった気がした。1416号室の鍵をもらったあと、運転手の背中を叩いて手を振った。この人がいなかったら私はどうなっていたか分からない。水を買ってエレベーターで14階に上る。部屋に荷物を置いてすこし休んでから夕飯を買いに出かける。

東横インのすぐ近くに海があった。部屋のパンフレットに「東横イン釜山海雲台Ⅱ」と書いてあった。海雲台(ヘウンデ)。自分はいま海の街にいるのだと分かった。砂浜に下りて歩いていると屋台が並んでる。それぞれの店に水槽が置いてあるのが珍しかった。海辺から陸地を見上げて歩いていると高層ビル群の中にWestin HOTELの文字。読めたのはそれぐらいだった。波打ち際に大きな砂の山が見えた。海と空が影になって山を浮き立たせている。頂上まで上ってみると奥の白い月がはっきり視界に入る。私の足下には靴跡が無数に並んでいてそれが月のクレーターみたいに思えた。砂山を下りて街の方へ向かうとセブンイレブンマクドナルド、もう閉まっていたが海鮮料理の店があった。釜山は海に面していて魚料理が美味しいと本に書いてあった。遊歩道のベンチに猫がいる。近づくとサッと逃げていった。私はそこに座って息を吐き、階段を下りたらまたその猫がいた。今度はゆっくりと近づいたが、さっきのベンチの方へ階段を駆け上がっていく。もう少し散策しようと思った。

CINEMA HOTELという看板。映画で有名な釜山だから「シネマホテル」という名前には違和感がない。名画にちなんだ部屋があったりするのだろうか。韓国映画はあまり観たことがないから、撮影に使われた場所を見ても気付かないと思う。前方にプレハブ小屋みたいな建物が3軒ある。大きなビルの並ぶ通りにこんな建物があるのが意外で、映画のセットかなあぐらいに思っていると、後ろから「ネー」と聞こえた。きれいな声だった。今この道には私しかいない。考えながら通り過ぎたあと目の傍で捉えた光景が後から頭の中で開いて、ここが何の場所だったのか分かった。昔の記憶を思い出すような感覚で理解が追いついて、心臓が大きく動く。それが収まった後、顔が熱くなった。私はこの場所を知らない。でもこのような場所で働く人のことは知っている。黒い網のような服、自分が外国人だということが悲しくそしてそのことに安心する。落ち込んでいて卑屈で、どこかはしゃいでいる。

 

5月5日。夜に見た夢の中で私は飛行能力を得たが、でも判断能力を失ってどこへ行けばよいのか分からなかった。朝6時に起きたとき、またfire signが頭の中で聴こえた。朝食バイキングの会場へ行く。干し魚のスープ、ポテトサラダ、レーズン、赤飯。辛い味つけのミートボールにはたぶん鶏肉が使われている。器は持ち上げないのがマナーだと本に書いてあったので、そうする。銀色の箸を使って赤飯を食べる。部屋に戻って地球の歩き方を読み、昨日のことをノートに書いた。今日の予定を決めきれていなかったので急いで本をめくったが、まとまらないままチェックアウトの時間になる。エレベーターが満員で乗れないことが何回か続いた。ホテルを出て昨夜の通りへ行くと、小屋には誰もいなかった。椅子に、知らないキャラクターのひざ掛けが置いてある。おばあさんが前の道を掃除していた。海へ行くと、昨日見た大きな砂の山に子どもが登っている。

水族館を見つけて階段のそばにある建物に入ってみるとお土産コーナーとレストランだったので外に出て、チケット売場へ向かった。売場は空いていたが、客が多いとき使うための通路に入ってしまった。係員の女性が苦笑している。何回も曲がってようやく受付に着いた。案内が読めず困っていると「Japanese?」と聞かれる。頷くと日本語の話せるスタッフを呼んでくれた。「こっちのは何ですか?」「しょうがい」「ああ」料金の3万ウォンを払おうとすると「こっち」と言われた。水族館の入口で支払うようだった。係員からオプションの説明をされたが分からなくて困っているところに、さっきのスタッフがまた来てくれた。レシートを見ると外国人料金だった。入ってすぐの水槽でピラニアが泳いでいた。昔、鳥羽水族館かどこかでピラニアを見たことがあった。その姿が印象的で久しぶりに見たかったけれど、韓国で叶うと思わなかった。過去に見た時は捕食の様子が展示されていたが、現在はやらないだろうと思った。ピラニアの群れは赤くライトアップされた水槽をぐるぐる泳いでいる。この水族館は子どもが楽しめるという点に力を入れているように思った。飾りやBGMが賑やかで、どこかのフロアでは人魚姫のショーをやっているらしい。追加料金を払ってVRのオプションを付けたが、どこで使うのか。言葉が分からないため、物珍しいものを見る子どもの気持ちで水族館を楽しんでいる。足下をジンベイザメが横切った。展示を見終えてさっきのお土産コーナーに出た。f:id:columbia6421:20230726224355j:image子ども番組のテーマのような曲が流れている。お腹は空いていたが食堂には行かなかった。海雲台ミルミョン専門店という店で昼食を取ろうと思っていた。ミルミョンとは北朝鮮から避難してきた戦争難民が平壌の冷麺を再現しようと作った釜山発祥の冷麺のことらしい。バスキンロビンスでアイスを買う。カウンター2席とテーブルが3つ、日本の交番くらいの広さの店を男の店員が回していた。ほかの客のやり取りを見てから自分もアイスを注文しに行った。「チョコ」と言ってサンプルのコーンを指さす。「チョコ?」といって店員がケースを指さした。この店にはケースに入ったアイスクリームと機械から出てくるジェラートがあったが、私はジェラートが食べたいので改めて「チョコ」と言って機械を指さす。3000ウォンの料金に10000ウォン渡した。男はレジから4000ウォン出して渡してきた。お釣りは7000ウォンじゃないのかと思ったがそのままジェラートを受け取って、店を出ようとするとアイスをもう1つ渡された。注文と違うけれど訂正してる間に溶けてしまうので、諦めてアイス2つを手に急いでベンチに座りチョコチップが入った固いジェラートアイスを噛み砕く。

東横インの前で昨日の運転手に電話をかけると、韓国の演歌みたいな音楽が流れた。男が出て「アンニョン~」と言った。「東横イン~」と言うと私のことが分かったようだった。「市内観光」「ああ市内観光」「いくらぐらいかかりますか」「10万ウォンくらい」私はその料金が高いと感じた。今日の宿泊費や明日空港まで行く交通費も残さないといけない。「地下鉄」とか「電車」とかの言葉が断片的に電話口から聞こえるが、向こうも公共交通機関がいいと思っているのだろうか。「時間はどれくらいかかりますか」「1時間」運転手がここに来るまで?市内観光に?それらを考えたり伝えたりすることがだんだん面倒になってきて、「東横インオーケー?」と言っている運転手に向かって「ごめんなさい。地下鉄で行きます」と言った。「ああ。」しばらく間が空いて、「さよなら」と運転手が言った。私も「さよなら」と答えた。

海東竜宮寺(ヘドンヨングンサ)は地球の歩き方で初めて知った場所だが、海岸に沿って建てられたお寺で訪れた人の願いをひとつだけ叶えてくれるパワースポットらしい。写真から広島の厳島神社のような外観を想像した。場所は海雲台から車で約30分のところにあるが、タクシーを断ってしまったため地下鉄とバスを乗り継いで向かうことになった。平壌冷麺は探すのに時間がかかりそうなので止めた。新海雲台(シンヘウンデ)駅に着いて半地下の駅に入ると、ダンキンドーナツの店舗があった。オールドファッションが食べたかったが売っていないので、チョコオールドファッションにした。すぐ食べますかと聞かれて頷くと薄い紙に入れて渡してくれた。ミニオンのキャンペーン中だった。5千ウォンで一日乗車券を買う。券売機には1万ウォン札が入らなくて両替機で千ウォンに崩した。新海雲台からセンタムシティ駅へ。

地下鉄でラコステの袋を持つ母娘を見た。センタムシティは世界最大のデパートとしてギネスブックに認定されている。また、映画の殿堂という釜山映画祭に出品された作品のみ上映する映画館があるらしいのだが、どこにあるのか分からなかった。センタムシティ駅からバスを使う。韓国のバスは乗車の時に料金を払うことは知っていたが、うまく払えなかった。眠気に襲われて何度かうたた寝した。停留所のアナウンスがあったがどこで降りればよいか分からないので、「海東竜宮寺2km」という看板が見えた直後の停留所で降りた。ロッテのショッピングモールが目の前にある。2kmならばじきに見付けられるだろうと思って歩き出した。

空きテナントを数軒過ぎた後、目の前に海が開けた。海雲台の海と違って磯臭い。海岸のせり出た地形が遠くに見える。看板の示す方向と反対だが、あそこが海東竜宮寺じゃないかと思った。写真ではああいう感じにお寺が並んでいた。それで近くまで行って確認したらただの出っ張っている海岸だったので、引き返して進行方向を修正する。漁船が見え、だんだんとすれ違う人が多くなってきた。浜には海苔が干してある。ピンク色のタコの絵が描かれた壁があった。しばらく歩くと漁港らしい海から海水浴場の景色になってきた。砂浜で遊んでいる家族やカフェを見て、いよいよ近づいてきたんだなと気持ちが高まった。ここまで観光らしい観光をしていないから、余計楽しみになる。案内板で現在地(You are hereと書いてある)を確認すると海東竜宮寺が遠く離れた地図の端になっていて、愕然とした。

目の前に広がっている海は松島(ソンド)海水浴場という。海開きはまだなので泳いでいる人はいなかったが、ウェットスーツ姿でサーフボードを抱えた人がいる。レクリエーションをしている男女がいたりドッジボールをしている学生がいた。ジャスミン茶を売っている屋台があった。軍服を着ていた人たちが黒いTシャツ一枚になり、相撲みたいなことをしてはしゃいでいる。顔に布を巻いた人が露店でばらを売っている。小さなハートのシール付きと付いていないものがあって、付いていないのを5000ウォンで買った。ばらは透明の小さな袋に入っている。何かを説明してくれたが、言葉から意味が受け取れない。f:id:columbia6421:20230726213136j:image5月の風が気持ちよく吹いて、日差しも穏やかだった。昨日の海もきれいだったなと思って海雲台の方へ進んでみたが、次第に寂しい景色になってきた。屋台で賑わっていた歩行者天国が終わって車道に変わった。3階建ての建物の1階に喫煙スペースがあってマールボロの箱を見た。煙草の灰が男性機能の低下を暗喩している。これ以上進んでも何も無い。近くの駅から都会へ行き、ホテルでゆっくりしたい。左折して海辺から街の方へ進むと大きな道に出た。地図や標識を頼りにして駅に着く。国道の風景は日本と近かった。松亭(ソンジョン)駅はセンタムシティ駅と比べると人が少なくて電車もあまり来ない。駅の待合室は広く新しかった。ここから教大(キョデ)駅を経由して釜山広域市の繁華街の一つである西面(ソミョン)駅へ向かう。釜山の中心部にこれまでで一番近づくことになる。優先座席に若い男女が座っていたが、高齢者が乗ってくると2人は同時に席を立った。動きがスムーズで、譲ることに慣れていると感じた。

西面駅直結の地下街は多くの店で賑わっている。フレッシュジュースのスタンドや靴屋、服屋があった。火の鳥を読み終わったので本屋で日本語の本を買おうかと思ったが、お腹が空いていたので先に飲食店を探すことにする。地上に出て青林という魚料理の店に入った。魚定食を頼む。「お酒は?ビール?」と聞かれる。「小さいのは?」「ない」「日本酒は?」「ない。焼酎?」座敷席は自分ひとりだった。魚定食は魚の刺身2種類とさんまの塩焼きが主菜。野菜の胡麻和えと胡麻豆腐、玄米のご飯、キムチが白い皿に盛られて出てくる。チゲ鍋は出汁が利いてとてもおいしいが、魚の骨で食べにくかった。キムチは私の口には少し辛い。口直しに胡麻豆腐を食べる。刺身もおいしい。醤油とわさびは日本と一緒だが、焼き肉みたいにコチュジャンとサンチュが添えられていた。焼酎は瓶で出てきたのでグラスに一杯だけ注いで飲み、残りはリュックに入れた。「ネ~」と聞こえる。客が来るたび「ネ~」と聞こえて「は〜い」とか「いらっしゃいませ」みたいな言葉だったのかなと思う。40~50歳ぐらいの客が2人座敷に入ってきて私の近くに座った。女将が来て少し話した後、2人は店の奥へ連れて行かれた。会計は2万いくらだった。f:id:columbia6421:20230726213334j:imageTOM N TOMS COFFEE(トムエントムスコーヒー)に入った。「アイスコーヒー」が店員に伝わらず「コールドブリュー」と言ってみたが、同じだった。困っているとメニュー表を持ってきてくれてやっと注文が伝わった。フードコートで使う、出来上がったら音の鳴る機器を渡される。アイスエスプレッソ。アイスコーヒーとは別のコーヒーなのだろうか。とても苦くて頭がしゃっきりする。駅の西側にはホテルばかりの通りがある。本を見ながら日本語可のホテルに電話したが、どこも満室だった。「韓国 宿無し」「釜山 宿無し」「釜山 サウナ宿泊」などとネット検索していると「シントンパントンチムジルバン」という24時間営業のサウナがヒットした。「チムジルバン」がサウナの意味。スターバックスの入ったビルの8階で、治安は悪くないと思う。

西面のメインストリートを散策している。ライブハウスの前を通ると、客が外まではみ出していた。古いゲームセンターに入るとキングオブファイターズ96と97が隣り合わせで置いてあり、頭文字Dも1台稼働していた。管理人室みたいな小さい部屋に中年の男が座っている。パンチ力を測定するゲームの周りを5人の若い男たちが囲む。1人がサンドバッグを思い切り殴ると9800いくら出て歓声が上がった。若い女の人がキングオブファイターズをやっている。なぜ日本の古いゲームを韓国の若い人が遊んでいるのだろう。レトロな文化として人気があるのだろうか。韓国でも新しいゲームはあるだろうから最先端の技術として扱われているわけではないのは分かるのだけれど、日本と韓国とを比較することがうまくできなくて少し混乱した。

串焼きの鶏肉と牛肉を売る屋台が出ていた。赤いソースがたっぷり塗られている鶏肉を選んだ。ママサンが何か質問をしてきたが答えられないでいると、いいよ、と手で示した。串は30cmくらい、コチュジャンソースが甘辛くて食べやすかった。地下街のYES24という本屋に入った。ジムジャームッシュのDVDBOXが70000ウォンだった。文具コーナーでマスキングテープを見ていると店員に声をかけられた。他の客にも何か言っていて、閉店の時間を伝えているようだった。店名から24時間営業かと思っていたが22時で閉めるようだ。

シントンパントンチムジルバンに来た。スターバックスと「ど う も」と特大サイズの暖簾を出した居酒屋が1階に入っている。飲み物を買うためコンビニへ行くと、店員がレジの後ろで椅子に座っていた。立ち上がると身長が165cmはある女性で年齢は私と同じぐらいだった。ハエを振り払って、踏んで殺そうとする。この店に入ったときに変なにおいがすると思った。ポカリスエットとキャメルを買う。この辺りは会社員が多くて、大阪でいうと南方だと思った。トイレに寄ってからエレベーターの8階を押した。後から乗ってきた2人は6階で下りた。8階でエレベーターが開くと立ち入り禁止のテープが張られていて、その先は暗闇だった。

ビルの前にベンチが2脚あり、スマホゲームをしている男の隣に座った。向こうのバーから店を宣伝する甘ったるい音声がずっと聞こえていて、その音声の後へなへなした効果音が流れる。男は会社員のようだけど、ずっとここに居るのだろうか。立ち上がって少し歩いた。キャメルの箱はクリーム色でかつお節の匂いがする。戻ってくると女性二人がベンチに座っていた。飲み物を一気に飲んでしまったのでまたコンビニに行く。さっきの店員が座って商品のちくわを食べていた。客が何人か入ってきてドアが内側に開けたままになった。店員が思いっきり閉めたので西部劇の酒場みたいにドアが揺れた。小さなカルチャーショックをたくさん受けている気がする。おーいお茶を買って店を出ると少し元気が出てきて、大通りで見かけたエンジェルホテルに電話することを思い付いた。

サラリーマン向けの飲み屋街から地下を通って駅の反対側へ行くと若者の多い、心斎橋みたいな街の大通りになる。地下街の店はこの時間ほとんどが閉まっていて、閉店した服屋の前で女性が何もせず座っていた。地上に出て少し歩いたところにエンジェルホテルがあり、そこで電話をかけた。海外で電話をするとかかる前にポーーッと機械音が鳴る。韓国語が聞こえる。「日本語で大丈夫ですか」「大丈夫ですよ」「今日泊まれる部屋はありますか」「今日は満室です」今日はどこかに泊まるのは諦めて明日の飛行機に間に合うように空港へ行ければいいかと思った。終電の時間が近づいているが駅へ急ぐ人を見ないのは、たぶんタクシーが安いからだ。昨日乗ったタクシーは、体感、日本で乗る時の半分ほどの料金だった。再びゲームセンターに入る。西面での数時間のあいだに落ち着く場所ができ始めていた。

私はキングオブファイターズの台に座り、餓狼伝説チームを選んでプレイした。ジョー・ヒガシアンディ・ボガードテリー・ボガード。1ゲームも取れずゲームオーバーだった。韓国で日本のコンピューターに負けたと思うと変な気分だった。男性がサンドバッグにパンチするのを連れの女性が見ている。このゲームをするのは日本でも韓国でもだいたい同じ人だと思う。この男も9800ぐらい出していた。

ゲームセンターの奥の方にカラオケボックスがある。ネットカフェの個室ぐらいの大きさに、1セットずつマイクと機械と歌本が置いてある。ドアーズのライトマイファイアを歌おうと思った。歌本が薄いから無いかもと思っていたが、入っていた。夜を燃やすという歌詞が印象的な曲だ。4曲で1万ウォン。お金を入れて番号を押しても曲が始まらない。画面には大きなバツ印が出ている。もう一度、二度やってみても同じ現象が起こった。やっているうちにお金を入れてからどのようにしてバツが出るのか理解できてきた。お金を入れるとハングル語の文が1つ出て、その下に1~、2~、3〜、4〜と文が出てくる。曲の番号の1桁目を押した時点でバツが出る。再度お金を入れると別の文章が表示される。流れは分かったが、実際問題、どうやったら歌えるのだろうか。初めの文は問題文、1〜…の文は選択肢で4択の選択問題みたいになっているが、もしかしてこれに正解しないとカラオケを歌えないのだろうか?他の室からは音楽が聞こえているが、彼らは正解したのだろうか?歌いたい曲(押したい曲の番号)は決まっているから、同じ選択肢しか選べないのじゃないか。私は頭が混乱してきて、部屋を出た。でも店を一周した後に諦めきれず別の室で同じことをした。やはり4択になってそこから先へ進めなかった。

駅の近くのライブハウスから音が聞こえてくる。終電後の街にまだたくさんの人が歩いている。HOLIDAY CAFEという店に入ってみる。アイスカフェラテを買って2階の席に座る。変圧器とモバイルバッテリーをコンセントに差し込んで時計を見ると夜中の2時だった。近くの席では男の人がパソコンで曲を編集している。女の人が2人で入ってきた。1人は仕事を始めて、もう1人は席に着くなり机に伏せて眠った。私はSNSを見たり音楽を聴いたりして眠気に耐えていたが、トイレが使えないので席に物を置いて外へ探しに行った。青い屋根の店の前で男女が話していた。女の人は煙草を吸っている。公園の植え込みいっぱいにパンジーが咲いている。道を曲がると知らないところに出たが、歩き疲れていてこれ以上散策する気になれなかった。カフェに自分の席があることや周りに作業する人たちがいたことが、ふと嬉しくなった。仕事で終電を逃して、カフェで仲間と粘っている自分を想像する。悪い気持ちではなかった。仲間意識を持つというのはこういう感じなのだろうか。遅くまで働いたり外で遊んだ日にタクシーを安く利用できるのはありがたい。でも便利さがタクシー会社で働く人たちを苦しめてもいる。社会の問題について考えて自分の意見を闘わせてもいい、と今思っている。これまであまり抱いたことのない感情だった。誰かに迷惑をかけたという記憶がここには無いからだろうか?私はここで、誰からも、何も奪っていない。

2階を清掃するため1階に行ってほしいと言われた。移動するついでにパニーニを買った。男性と女性2人は帰り支度をしていた。コーヒーを飲み終わって店を出ると、雨が降っている。店の前で女性が男性に怒って、そのあと笑っていた。

人通りが減ってすっかり静かになったメインストリートで、業者が屋台を片付けている。飲み屋街に男が数人溜まっていて、ポロシャツを着た一人が近づいてきた。マッサージ、アガシ、と小さい声で言って私の腕をつかんだ。その男が言うアガシの意味を私は理解していたから、ちゃんと聞き取れた唯一の韓国語かもしれない。私は男の腕をつかんで離し、小さく会釈して再び歩き始めた。途中でゴミ捨て場に焼酎のビンを捨てて、空港へ向かう最後にコンビニへ行った。店員は手元が狂って店の商品を壊し、クソ、みたいな事を言って財布からお金を出していた。私は店員にインスタント麺(ラミョン)、おいしい(マシッタ)、お土産(ソンムル)と言った。店員とインスタント麺のコーナーに行ってこれは何々、これは何々と説明を聞いた。一方は日本にある商品だったのでもう一方を2つ買ってお土産にした。店を出る時、店員が白人の客に接客を褒められているのを見た。商品の場所を教えたが違う方へ行かれて怒りを露わにする店員の動きが外からでも分かった。

西面駅で金海国際空港行きの切符を買う。駅の階段で前を歩いていた男の鞄が女性に当たった。女性は黙って顔を抑えている。沙上(ササン)駅で空港行きに乗り換え。プラットホームまでの移動通路で前の女性が怒鳴っている。彼女は後ろを振り返って一度黙り、前を向き直した後、再び怒鳴り始めた。9時5分の飛行機で日本に帰った。朝の空港は賑やかだった。f:id:columbia6421:20230726214730j:image