足利銀行

2013年の4月1日からJRでは仙台・宮城デスティネーションというキャンペーンをしていて、東京〜仙台間が通常よりも安く移動できるようになっていた。職業訓練校で働いていた私は今担当しているクラスが終わったらディスクユニオンという東京のCD屋で働くことを考えていたので、4月からの連休を使って東京へ行き、店や働く人の様子を直接見ておきたかった。そこから少し足を伸ばして、震災から2年が経った宮城県岩手県の様子を見たいと思った。


4月26日。高校のときの地図帳、旅行ガイドブック、時刻表、本、着替え、書類を入れるクリアファイルなどを準備した。スマートフォンを持っていなかったので乗り換える駅を何パターンか調べて印刷しておく。仕事中、訓練校の生徒に目が綺麗と言われたがどう返事していいか分からなかった。夕方に会社の人たちと新大阪のカラオケへ行った。社長から次のクラスではメインで教える経験を積んでもらいたいと言われたが、自分の意向とは違った。私はsailing dayなどBUMP OF CHICKENの曲を歌った。社長がブルーハーツの終わらない歌を歌っていて、何というか逃げ場を封じられたみたいな気持ちになった。


4月27日、20時30分に所持金5万円で家を出た。新大阪駅正面口の鉄道警察前駐車場で21時40分に集合し、22時に出発。御在所、静岡、海老名のサービスエリアに停まる。


28日の朝6時45分、東京駅の八重洲口に到着し、PRONTで朝食にマフィンセットを食べた。トイレの個室に長く居座る人がいてなかなか入れなかった。東京駅から浅草橋駅へ行くときに、1日都心乗り放題の券を購入。浅草橋から都営浅草線押上駅に乗り継いだ。そこから歩いて東京スカイツリーへ行った。初めて見るスカイツリーは、とにかく大きくてびっくりした。押上駅から浅草寺まで歩く。晩春の暖くて過ごしやすい日だった。雷門、仲見世を通って浅草寺でお参りをする。田原町駅から神田、神田からJRに乗り換えて中野へ行った。中野ブロードウェイのライセンスという喫茶店に入ってアイスコーヒーを飲む。11時40分まで本を読んで、味七というところで辛しみそラーメンを食べた。まんだらけいがらしみきおの珍しい本を見つけたが、買わなかった。

中野から新宿に移動してディスクユニオンを回った。ジャズ、ソウル、パンクなどとジャンルに特化して出店されているのが特徴的だった。FIFTEEN、Mega City Four。日本橋K2レコードという大阪で一番だと思っているレンタルショップにも置いていないCDが有って、東京ってすごいんだなと思った。GANG GREEN、Pale saints。PavementブートレグPavementのslow centuryというドキュメントを日本でも売ったらいいのにと思っていた。crimpshrineの1stアルバムを1500円で買った。店員がどんな風に働いているかをもっと見ておくべきだった。父にレコードを購入したが、レコードに関しては少し高いという印象を持った。17時に新宿を出て池袋に移動する。

新文芸坐ビリー・ワイルダーの特集をやっていた。館内に置いてある市川雷蔵映画祭のチラシを見て、市川染五郎とあまりに似ていることに驚く。『昼下がりの情事』『情婦』の2本立てを1300円で観た。両方ともおもしろかったが疲れて何度か寝てしまった。22時半に赤羽へ。

この日は赤羽馬鹿祭りが行われていたらしいが、私が着いたときには1日目が終わって静かになりかけているところだった。「馬鹿祭りに来てるんだけどあなたのこと思い出して電話したの」とすれ違った女性が言っていた。松のやでささみかつ定食を食べた後コンビニで歯磨きセットを買い、ネットカフェに2000円のナイトパックで入った。リクライニングシートの席。1万円使って残金が3万9000円になった。


4月29日。27日の夜から風呂に入れていないのでコインシャワーを浴びようと思ったが、使ったことがなくて躊躇しているうちに出発の時間になった。9時にネットカフェを出て赤羽駅へ向かう。薄茶色の建物の2階に濃い茶色のデニーズの店舗が収まっていた。駅でサンドイッチと牛乳を買い、宇都宮行の電車に乗る。栃木県へ行くのは初めて。隣に短いスカートの女子学生が座った。黒磯駅でJR東北本線に乗り換え、ワンマン電車になる。つつじの花がきれいに咲いているのが見えた。郡山駅のホームでペットボトルのお茶を買う。福島駅から快速電車になった。地図帳を開いて通過した地名を確認するのが楽しい。15時に仙台駅に着いた。

宮本輝の『錦繍』を読み終えた。14通の手紙が小説になっている。私の中にもある、命について考えた。命の動きをおさえようとしたり他人のそれを笑ったり馬鹿にしたり、また、美化もすべきではない。まっすぐに見なければいけない。生存のために自分を隠して命を粗末にすることを選んだ。生存と関係ないことは命を粗末にしているようにみえるけど、実はそうではない。生きていくのに一見関係ないことが命の求めていることであるかもしれない。

仙台駅から地下鉄で広瀬通駅へ行き、フォーラスというビルの地下2階にある北京餃子に入った。豚玉丼と広東焼きそばのセットを注文。隣はライブハウス。ライブを観に来て、近くに安くてたくさん食べられる店があるのは嬉しいだろうなあと思った。17時、スーパーホテルにチェックインして少し寝る。堀北真希がネプリーグの人偏の漢字を答えるゲームで「仏」「仔」「依」と答えていた。缶チューハイを飲んでふらふらになりながら外に出る。
いつから人の目を見て喋れなくなったのか思い出したい。初めて指摘されたのが小学3年生のときで、喋れなくなったというより、喋る際は目を見るものだと知らなかった。私の通っていた小学校では1年生と6年生、2年生と4年生、3年生と5年生がペアになって様々な行事を行うことになっていた。何かの話し合いで集まっていたときに、5年生の女子から「きみは何で目を見て喋らないの」と聞かれた。私はこういうときにどんな反応をしていただろうか。今は、嘲笑というか、誤魔化すように笑っていることが多い。ホテルの出入口の前の階段を駆け下りた。
ふたつ上の学年だから自分たちが中学校に上がったとき、ペアの上級生は同じ中学の3年生だった。特別な視線を送っていた気がする。友達のお兄ちゃん、いつも一人で自転車に乗ってどこかへ行っていた男の人、女子バスケット部のキャプテンになれなかった人。小学生の頃に持っていた印象が中学生になって変わったことを、小学生のときより冷静な目になって眺めている。そしてなぜか視線の中に、その人を思いやる優しさのようなものが含まれていた。眼差しはものを見る上でノイズだったのが、知らない間にそれが本流のようになっている。体裁を整えて現在も同じことをやっているような気に、たまになる。自分も2つ年下の子からそのような視線を受けたのだと思うが、そうやって見られていることを認めるのが嫌で、頑なに意識しなかった。私の中に答えはあるのだが、見つけることができない。
末廣という店で中華そばと半やきめしを食べた。ホテルに戻って大浴場の風呂に浸かり、頭を2回洗った。お金は残り2万5000円。いつかは誰かと旅行してみるのもいいかもしれない。


4月30日、7時に起きてスーパーホテルの朝食バイキングを食べる。10時にホテルを出て本屋でいがらしみきおのエッセイを購入すると、店員が彼の来店したときの話を聞かせてくれた。レコード、CD、本をゆうパックで家に送った。ずんだもちを買って食べ、これも家に送る。ATMで残金をすべて下ろして松島海岸駅へ向かう。12時に到着すると雨が降っていた。遊覧船のチケットを買って、乗船前に南部屋という店であなご重を食べる。13時出発の船に乗って、中の売店かっぱえびせんを買った。大群で追いかけてくるカモメは迫力があった。船から下りた後、海を見る。屋台で牡蠣を買った。16時の電車に乗って鳴子温泉に向かう。

松島海岸〜仙台〜小牛田〜古川〜鳴子温泉。20時を過ぎて空は暗くなり、ほとんどの店は閉まっていた。喫茶店に入りキーマカレーとコーヒーを注文する。店主と常連客の南部さんと、映画や音楽の話をした。美空ひばりの曲や『こめ』という映画のことを教えてもらう。ツィゴイネルワイゼンという曲のレコードを聴かせてもらった。21時に閉店。宿の予約を取っていないと言うと店主は、ばかな!と言った後、知り合いのやっている宿に電話して予約してくれた。そのあと南部さんに宿まで送っていただいた。石巻に住む彼の娘さんは逃げることができたけれど、家と車が津波で流された。
宿の女将さんに部屋を案内してもらう。予約を取らなかったことについて、無謀と言われた。湯治客が多い宿で、確かに温泉からは効能のありそうな匂いがした。湯は乳白色で浴そうは真っ黒だった。30代にみえる男の人が温泉に浸かっていた。どこから来たかという話になり、私はここまでの行程を説明した。何か言ってくれるかと思って、宿をちゃんと予約しなかった話もしたが何も言われなかった。旅行をよくしたらしい。バイクに乗って日本中を周ったという。この宿には家族で来ているということだった。私は自分がバイクに乗ったり、結婚して家族と旅行することを想像した。話はそこで途切れてしまい、男の人は先にあがった。部屋に戻って23時に寝た。


5月1日、6時に起きて8時に朝食。ふきのとうが入った味噌をご飯にのせて食べた。すごく美味しくてまたどこかで食べたいなと思う。部屋の片付けや準備をする。廊下で昨日の男の人とその家族に会釈する。6200円払って、9時に宿を出た。喫茶店に寄って店主にお礼を言った。
足湯にしばらく浸かってから、滝之湯に入浴した。千年の歴史がある公衆浴場らしい。温泉街で鳴子こけしのストラップを3つと、こけしあられを買った。鳴子温泉から一ノ関へ移動。

カフェモンテという店でパスタランチを食べ、平泉駅へ。駅の案内所で話を聞くと三陸鉄道にはたくさんの客が来ているそうだ。歩いていると大雨が降ってきて、傘を買った。中尊寺金色堂へ行く。仏像の顔をしっかりと見た。奥州藤原氏の歴史を読んで『おくのほそ道』を購入した。駅まで歩いてそこから盛岡駅に向かう。19時に着いて、またスーパーホテルで泊まることにした。HotJaJaという店で大盛じゃあじゃあ麺、チータンタン(麺を食べ終わって注いでもらうゆで湯のスープ)、岩泉という地酒を頼んだ。日本酒なら飲めると思ったがダメだった。


5月2日。6時に起きて大浴場で風呂に入った。健康朝食(スーパーホテルの朝食バイキング)にあった、ひっつみ汁という岩手県の郷土料理が美味しかった。1階のパソコンで盛岡から久慈への行き方を検索し、印刷する。盛岡から宮古は往復3640円、宮古から久慈は往復4180円、計7820円。11時の電車で盛岡から宮古駅へ。宮古駅からは北リアス線になり、小本駅へ。小本駅からバスに乗り換えて田野畑駅。この区間はまだ電車が復旧していない。カンパネルラ田野畑とピンク色の駅舎に書かれていた。田野畑から再びリアス線で久慈駅に行った。お金が残り少ないことに気付いて、何も買わず盛岡行のバスに乗る。20時に盛岡駅に到着。仙台に戻ろうと電車に乗ったが、22時、一ノ関駅に着いたところで電車がなくなった。

宿泊代にまわすだけの旅費の余裕がなくなり、仙台駅を目指して歩き始めた。標識を頼りに車道の端を歩く。歩きながらウォークマンYO LA TENGOのI CAN HEAR THE HEART BEATING AS ONEというアルバムを聴いた。GREEN ARROWという虫の声が入った曲を聴きながら田舎道を歩くのは不思議な経験だった。灯りがないため星をきれいに見ることができたけれど、道が怖かった。歩いている左側は何も見えない。夜中の1時半、標識に仙台まで80kmとあって無理だと分かりながらもまだ歩いている、歩けば宿泊費も交通費も浮くからという敗北主義。「鬼死骸」というバスの停留所があった。文字が怖かったのかその意味が怖かったのか、諦めがついて、来た道を何度も走って戻った。事前に知っていたらそうでもなかったかもしれないが、暗い道でぱっと目に入ったのもあって、鬼死骸という名前のインパクトを直に受け取ってしまった。駅前の招福亭くれよんというカラオケ店に翌朝の始発まで居させてもらうことになり、順番待ちの椅子に座って眠った。本当ならばこの日のうちに仙台まで行って宿泊し、3日に帰ろうと思っていた。夜行バスを待つ客の声や、漏れ聞こえてくるカラオケの音でよく眠れなかったが、人のいる安心感には変えられなかった。


5月3日、店員にお礼を言って5時30分に出発した。目覚めが悪い。駅で「小さな旅ホリデー・パス」というJR線の南東北エリアに1日乗り放題の切符を買った。これで栃木県までの区間を通常より安く移動できる。一ノ関~仙台~福島~郡山~新白河新白河駅には12時に到着。ホリデー・パスで移動できるのはここまでだった。

大阪までの交通費が足りないことに気付いたのはこのときだ。1万円必要なところ、7000円しかない。新白河から東京までの移動に3300円、東京から大阪行きの夜行バスに乗ると5000~6000円かかる。東京まで行って知人にお金を借りようとも考えたけれど、避けたい手段だった。何回か計算し直したが、やはり足らなくて焦っている。しかし仮にではあるが、宇都宮までの交通費を何かで浮かせることが出来れば自分のお金で大阪まで帰ることができる。ハムカツコロッケロールを買って黒磯駅に移動し、ベンチでパンを食べながらしばらく考えた後、ノートに「よければ乗せていただけませんか」と書いた。

3回書き直したノートを開き、黒磯の道路で立っていた。運転手ににらまれたり学生から笑われたりしたが1時間。車が止まったので駆け寄って事情を話し、宇都宮まで行けば帰ることが出来ますと言うと、宇都宮までなら帰り道だからと乗せてもらえることになった。運転席に男性、助手席に女性、後ろの席におばあさんが乗っていた。私はおばあさんの隣に座って、リュックサックを膝の上に置いて腕で抱えている。

私の字は細すぎて何を書いているのか見えなかったらしく、たぶん旅慣れない人なんだろうなあと思ったらしい。コンビニで夫婦が車を降り、おばあさんと2人になった。大阪から来ましたと言うと、おばあさんはそうですかと笑っていた。5~10分ほどで帰ってきて再び走り始めた。ありがたいことに宇都宮よりも少し東京寄りの石橋という駅まで乗せてもらうことになった。栃木県にはいつかゆっくり来たい。1時間走って15時に石橋駅に着き、別れる時に紙袋を渡された。中を見るとパンや飲み物が入っている。コンビニで買ってくれたのだ。私は写真が撮りたいと言った。夫婦はいい、いい、と言って帰った。お礼がちゃんとできなかった。一人になり改札に向かう。写真を撮りたいと言ったことが恥ずかしく思えてくる。なぜあんな事を言ったのだろうか?誰かに迷惑をかけることがあっても、申し訳なさを自覚することができたらそのことが一つ慰めになるのだが、車に乗せてくれた方達にはそれも出来なかったから情けない気持ちがそのまま残っている。

歩きながら袋を見ていると封筒が入っていた。足利銀行の封筒の裏に私宛てのメモが書かれていて、中にお金があった。私は立ち止まった。男性が車を止めてくれたときの気持ちを想像した。家族を乗せて車を運転していると、知らない人がノートを持って立っている。それを見て、たぶん旅慣れない人だから乗せてあげなければと思った。

東京駅に着きバスの券を購入する。頂いたお金と乗せてもらった分の交通費がなければ買えていなかった。
何日か後に家族で兵庫県の出石に行く機会があり、鳴子でお世話になった喫茶店や南部さんに手紙を出したくて土産屋で絵はがきを買った。調べれば喫茶店の住所は分かるのだが書き出せなくて今になっている。