中国の留学生

 
 朝は8時頃に目覚めて出勤、弁当箱に蜜柑の載っていることが巾着袋の上から分かった。ウォークマンをシャッフル再生にして聴き乍ら正雀駅まで歩いた。容量が2GBと少ないせいで、何がかかっても何かを思い出してしまう。
 
 上新庄駅で乗ってくる女の人を見ることは多分もうないと数日前から思っていたが、この日が来てしまった。リュックサックには天使の羽みたいのが付いている。それを背負って違和感のない女性が乗っていました。

 淡路駅で降りた。淡路ではフィリピン人か日本人か分からない女性とよくすれ違った。喋っているのを見たことがないのでどちらかわからないまま。今朝はすれ違わなかった。
 
 9時25分にタイムカードを押し掃除をする。普通にいつも通りに、と意識して動作をする。一人ひとりきちんと頭を下げて挨拶した。朝礼の時「礼が首だけになってない?」と言われてしまったが。

 昼休みにSさんからPARKERのペンを頂いて気が付いたが、お菓子とか言うこととか何も準備してきていない。

 午後からも大きい失敗はしなかったように思う。研修のSさんは16時頃に帰られた。17時になってタイムカードを押す。それから夙川・玉造・園田の人たちに電話を掛ける。園田は留守だった。届け出を3枚書いてから守口の人にも電話する、残念がってくれた。セロハンテープで貼った紙を剥がすと厚紙だったからか、バリバリバリバリと思った以上に音が出てしまって、誰の顔も見られなくなった。Aさんには、体に気を付けてくださいと言った。音楽の趣味が合って、以前BLURのコンサートに行かれた時はツアータオルを買ってきてくれた。パークライフかな、CD借りたこともあった。これからも音楽聴きますから、と言って階段を下りる。1階の紙も外す。押しピンで留めているので音は鳴らない。紙の四隅があった所に押しピンだけが残る。最後の出勤だった。

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 駅へまっすぐ行かず何となく脇道に入った。東宝淡路で『バケモノの子』がやっていたが、17時20分で上映が終わっていて観られなかった。自販機で濃いペプシを買おうとしたがボタンを押しそこなったのでオランジーナを買うことにする。飲みながら下新庄の方へ少し歩いてブックランド本の森という書店に入った。前(とはいっても1年以上前だが)見かけて買わなかったミラン・クンデラの本探すが見つからなかった。ハードカバーの『モモ』を買った。時間泥棒のやつ。500円。淡路駅に戻って19時半頃の電車に乗る。

 南千里駅で降りて、北大阪急行桃山台駅へ向かう。開運丸ラーメンという店に入って開運丸ラーメンとミニ開運丼セットを注文する。950円。スープを最後まで飲むと丼の底に「大吉」とか「小吉」とか書いてある。「大吉」の「士」の部分が消えて「大ロ」になっていた。

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 桃山台駅から千里中央駅までは90円で行くことができる。路線図に「90円」と2ケタの数字があるのが好きで、大した違いではないんだけど100円にならないでほしいな。喫茶店でメールの文面を考えようとしたのだがほとんど閉店しているか、開いていてもラストオーダーまでわずかな時間しかなかった。ベンチに座ってメールを送る。ポケットに携帯をしまいローソンに行く。水頭という名字の人がいて、「水頭さん」って呼ばれている光景を想像してしまった。水頭さんがechoとライターと携帯灰皿のレジを打つ。あとはどの店にも入らなかった。

 バス停で岸辺方面の時刻表を確認する。21時20分。道路を挟んで向こう側の自販機で水を買い、1000円札を崩した。バスの運賃が210円から240円になってから、乗車前に10円玉の数を確かめることが多くなった。「いま財布に40円入ってますか」って聞かれたら自信がない。40円。ベンチでたこ焼きを食べている女性がいて、ソースのいい匂いがする。食べてる時にだれか近づいてきたら嫌だろうなと思いつつ足がだるくて座る。端に、なるべく見ないようにする。

「あの、山田市民体育館へ行くバスはいつ頃来ますか。」
人間がほかにいないので横を見た。話し方で判断するに日本人ではなさそうだった。さっきも見たがもう一回行って時刻表を確認する。自分が乗るのと同じバスだ。
「21時20分が一番近い時間です。いま何時か分かりますか。」
携帯を見たくなくて異国から来た女性に時間を尋ねてしまった。iPhoneの時計を見せてもらう、20時56分だった。あと25分くらい。
「いま20時56分なので、もう少し、もう、しばらくはかかると思います。」
分の概念がわかるかどうか分からなくて言葉を濁してしまった。
「ありがとうございます。日本のバスは、分かりにくいです。」
「そうですね、日本人でも分からないときがあります。」
「……。」
「……。」

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「日本に来てから長いんですか。」
「1日前です。旅行では何回か来たのですが今は留学で来ました。」
「はあ(1日前という言葉をちゃんと聞き取れていない)。山田に住んでいるのですか。」
「はい今は。でも小野原に家を借りようと思って。」
小野原は知っている。小さい時同じマンションに住んでいた友達の、おばあちゃんの家が小野原だった。
「小野原というと、箕面市ですか。」
「はい!」
 
 ちがうバスが後ろを通った。行き先を確かめる。
「あ、あれはちがうバスです。」
「そうなんですか。」
箕面というと…どこの大学ですか。」
大阪大学です。」
「はあ!すごいですね。小野原にキャンパスがあるんですか。」
「いえ。大学の近くは、家賃が高いです。」
「……。」
 箕面市から吹田市にある大阪大学に通うには遠い気がする。交通費とかを考えると家賃が少しくらい高くても吹田市に住んだ方がよい気がするのだが。それとも留学生の寮とかがあるのだろうか。
「今日も小野原のほうに行ってきました。ミニミニは日本でいちばん有名ですか。礼金とかいれると高いですね。」
「はあ。」
「中国では礼金はないんです。」
 中国から来た人だった。ミニミニとかアパマンショップとかホームメイトとか、名前だけは知っているが何がどのように違うのかは全然。敷金礼金のこともよく分かっていない。
「あと2~3個あります。駅前とかに有名なところは大体あります。」
「ふうん。」
「あの……礼金とかは分からないです、一人暮らしをしたことがないから。」
「ふうん。」
「……。」
 知らないものになると笑うか黙るかになって役立たずが露呈するのを待つ。感情を見られなくて話し相手から顔を逸らしてしまう。嫌な時間が来たな、と思ったが女性は笑ってこちらを見ているだけだった。
「何の勉強をするんですか。言葉の勉強?」
「?」
「文学部とかですか。」
「ちがう、医学部です。」
大阪大学の医学部!すごいです。」
 医学部の知り合いはいない。間抜けな感想しか出てこなかった。
「留学の人はそんな難しくないです。」
「そうなんですか。何のお医者さんになるんですか。」

 女性は、ちがうちがう、と言うようにガソリンスタンドの店員がフロントガラスを拭くのと同じ動きをした。
「お医者さん、ならない。」
「そうなの!何になるのですか。」
「お医者さんじゃない、病気の研究。」
 
 ちがうバスが来た。次は顔だけでちがう感じを出す。
 医学部の人は医者になるものだと決めていたが、そうでもないらしい。患者の治療にあたるというより病気の治療法を研究したい。ガンの発生率を低下させたいって聞いた。そのためにガン研究の権威の研究室で大学院の勉強しながら研究生をしている。今日はがん細胞を培養する手伝いをしたらしい。日本人は腸、中国人は胃や肝臓、アメリカ・ヨーロッパの人は心臓の病気になりやすいという話も聞かせてもらった。彼女の話す内容や身振り手振りにはあきらかに熱があって、言いたいことが湧き出してくるようにみえた。

 乗るバスが来てしまった。女性はさっさと行って整理券を取らずに席に掛ける。整理券を取ってやり彼女の後ろに座って渡した。女性は、それどこで取るんですか、と聞いたあとで何回かせき込んでいた。そのあともコンコンいってのどぬ~るスプレーみたいのを吸っているので、持っていたクリスタルガイザーを前の席に突き出す。ぜんそく持ちだそうで、4月に症状が出やすいのを心配していた。少し黙った。

 LINEをしている。中国の大学を卒業してそのまま日本の大学院に入ったのだろうか。違う国に一人で暮らして、LINEをしている。

「失礼ですが、何歳ですか。」
「23歳です。」
 歳下だった。自分が23歳の時は、と思いかけてやめる。
「あ、ぼくは26歳です。日本に来て長いですか。」
「昨日。旅行では何回か来たんだけど。」
 同じことを聞いてしまった。会話に困らないくらい日本語がうまいのである。
「26歳、じゃあ学生じゃないですね、働いているんですね。」
「……。」
「日本の仕事はしんどいです。何時から何時までですか。」
「…日によりますけど9時半から5時くらい。」
「そうなんですか。」

 ……10分くらい乗っていると山田市民体育館が近づいてくる。一つ前の佃(つくだ)停留所でもかなり喋っている。乗り過ごさないか気になる。熱量を保ったまま話は日本のお店が同じ所に集中しすぎている、というところに差し掛かった。

「わたしが試験で茨木市に泊まった時、」
「あっ。」
「?」
「もう山田市民体育館前着く、と思います。」
 いま気付いたかのような物言いをする。
「本当だ。ありがとうございます。」
言って女は立った。
「このへんだったら、また会うかもしれないですね。」
「わたしは、明日、小野原に引っ越します。」
 これもすでに聞いた情報かもしれないが分かっていなかった。女は笑っていた。
「そうなの!」
 3拍くらいあった。
「じゃあね。」
「元気で。」
 阪急山田駅前で結構乗ってきたのでバスは混んでいたが、女性はずんずん降りて行った。10分くらい乗って山田南の、ライオンズマンションの前の停留所で降りた。